学界・文化界・芸能界一覧
(敬称略)
浅野 温子(女優)
この度、天皇陛下におかせられましては御即位二十年の嘉節をお迎えになられましたことを、心よりお祝い申し上げます。また、御即位二十年奉祝委員会の設立にあたり奉祝委員就任のご指名を頂き、たいへん栄誉なことと感激いたしております。
陛下の御祖神をお祭りされている伊勢神宮で、平成十五年より「日本神話への誘い」と題した公演の産声をあげさせて頂きました。日本人の財産であり、日本のルーツである古事記を、今の若い人たちにも分かり易くしたひとり語りの舞台です。
古事記の中には国を想い、人を想い、家族を想い、自然や食に感謝するという古来から日本人のDNAにある想いが、たくさん詰まっています。陛下の慈しみの御心やお気持ちに手を合わせることが日本にはたくさんございました。敬う気持ちというものがこの日本の中から薄くなってしまってはいけません。役者をやっている私にできることは、語り継ぐということだけです。
陛下のご巡幸の御心にならい、私も語り舞台で全都道府県全ての神社をまわり、受け継がれた日本人の気持ちを伝えていきたいという希望があります。日本神話を通じて、日本の皆様に何か感じて頂くきっかけになればと思っています。今まで、全国三十五のお社をまわらさせて頂きました。今年も、山口、伊勢など、語り舞台公演をさせて頂きます。
更なる陛下とのご縁は、持統天皇から始まった第六十二回伊勢神宮式年遷宮の記念公演です。明後日、六月七日、新潟にて公演をさせて頂きます。天の岩屋戸、天照大神さまのお話です。天の岩屋戸が開くこれからの日本において、陛下のお気持ちが人々を明るくし、希望に満ちた輝かしい世の中となりますよう心より祈念致します。
出雲井 晶(日本の神話伝承館館長)
草莽のひとりとして心よりうれしく御即位二十年を言祝(ことほ)ぎ申しあげます。
激動の世界にあってわが皇室は、遥か太古、神代に天神(あまつかみ)より伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が「このただよえる国を修(つく)り理(おさ)め固(かた)め成せ」との詔(みことのり)をいただいたそのときに始まり、神武天皇が橿原で即位されてからでも二千六百六十九年、その気も遠くなるような悠久の頂点にまします尊貴な万世一系の今上陛下が、今、御即位二十年をおむかえあそばしました。
まさに世界の奇跡とお称え申し国民こぞって言祝ぎ申しあげるべき、すばらしいことであります。
物質文明が、物が経済が人間の欲望がすべてのような現今をまず猛省し、日本民族みなの偉大なご先祖が直感で発見し、打ちたて伝承してくださった和の国、大和の国、言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国の原点を、この佳節にこそ想うべきでありましょう。
天孫降臨のおり天照大神が邇邇芸命(ににぎのみこと)におさずけになられた「三種の神器」にこめられた無私なる叡智と慈愛と仁勇を御胸に、日々ひたすら神をまつり国家の安寧、国民の幸せ、世界の平和、人類の幸を天皇陛下はお祈りくださっております。
なお今この世に生きている者のことだけにとどまらず天皇さまは、先帝陛下の「戦(たたかひ)をとどめえざりしくちをしさ ななそぢになる今もなほおもふ」との痛恨の御思いを継承あそばし、三百十万余のさきの大戦に殉じた方々の慰霊をお続け下さっておりますことは、何より大切な人の道を、戦後を生きる国民みなにお示し下さいました。
このような天皇さまをいただく有難い国に生をうけたことを改めて想い、心からの感謝の誠を捧げたいと存じます。ありがとうございます。
市村 真一(京都大学名誉教授)
両陛下と親しくお話させて頂く光栄に、私は二度浴しました。最初は、両陛下が皇太子殿下、同妃殿下でいらっしゃいました折、京都卸所で京都大学東南アジア研究センター所長として、東南アジア研究の専門家数人と共に、次は、マレイシア国王陛下の御訪日の折、皇居での公式晩餐会に招待されて、後のお茶の会でこんなお話をさせて頂きました。
市村「京都大学東南アジア研究センターの所長として、毎年京都卸所でお目にかからせて頂いた、市村でございます。あの折は、色々話がはずみまして、嬉しゅうございました。」
皇后陛下「あの折は、楽しゅうございましたね。」
市村「陛下、こちらは家内の悠紀子でございます。実は、家内の父は陸軍の参謀でございましたが、先の大戦で戦死致しました、、、」
陛下「どちらで、おなくなりになりましたか」
家内「海南島でございます。」
陛下「そうでしたか。」このお話が、しばらくつづい後、
陛下「市村さんの次の所長は、石井さんでしたかね」
市村「いや、すぐ次は日本の稲の起源の研究者の渡部教授で、その次がタイ仏教の石井教授でした、」といった調子であった。
京都では、一緒に居た中尾佐助教授のヒマラヤ山脈の南斜面中腹部に始まり、インドシナ半島の山岳地域、雲南・華南の山地、揚子江流域をへて西南日本にまで分布する照葉樹林文化が話題になり、縄文時代の植生や農耕文化が中国大陸の奥地と東南アジアにつながること、樫の木やさくらや日本猿が共通なこと等々と、話がはずんだが、陛下も皇后陛下も、実によくお憶えで、本当に驚かされたのであった。
岳父近藤大佐の話を聴いて頂いた家内は、二重橋を渡った時も帰途も、
「魂を二重橋(みばし)の前(うえ)にとどめおきみことかしこみ今日ぞいでゆく
との辞世を残した父が、今日の光栄を彼の世からみていたら、どんなにか喜んでくれるでしょう」と語って涙ぐんだ。万感をこめて、両陛下に心から感謝の誠を捧げ奉ります。
伊東 四朗(俳優・大阪藝術大学教授)
♪皇ー太子様ーおうまれになった……。あの頃兄や姉が唄っていたのを想い出します。そして小学生の頃の海岸でのあの褌姿の陛下のお姿に「あっ僕と一緒だ!」と叫んでいた幼い自分を想い出します。
そうです、あの当時は海水パンツではなく皆褌で泳いだものです。年齢は私の方が少々下るのですが、勝手に同年代の「仲間」にしていた御無礼をお許し下さい。
後年あの馬車での御成婚パレード観たさにテレビの受像機の普及が一挙に進みました。お蔭様で私もテレビの世界で何とかやって来られて半世紀が過ぎました。
これまで私の中では天皇、皇后両陛下は常に晴天の中に居られるお姿しか思ひ浮かびません。
思えば昭和天皇がはじめて欧州を御訪問の折も訪れる先々の地が晴天になったとか。又あの東京五輪の際も前日までの土砂降りが嘘の様に晴れ渡り、開会宣言のお言葉が神宮の青空に吸い込まれて行った記憶が甦ります。
そうです。現皇太子殿下の御成婚パレードでも突然と言っていい程晴れて参りました。
御即位二十年、連日の御公務本当にお疲れかとお察し致します。
どうかこれからも私達の心の中に晴天をもたらせて頂ける様、この平成時代、かわらず国民の心の拠り所でいて頂ければ、と思っております。
宇崎 竜童(作曲家・ミュージシャン)
天皇皇后両陛下御大婚五十年、まことにおめでとうございます。心よりお祝いを申し上げます。昭和三十四年四月十日、私は十三歳で、御成婚パレードを中継するテレビの前で家族と一緒に、馬車に乗られた両陛下の輝く笑顔に見とれておりました。
あの日から半世紀たちまして、私は作曲家をしております。私の妻は阿木燿子(あきようこ)というペンネームで作詞をしております。平成十八年(二〇〇六)秋、妻は紫綬褒章(しじゅほうしょう)を頂きました。授賞式には配偶者も来て良いということでしたので、私は妻に同行して、新調したモーニングを着て初めて皇居に伺いました。間近で拝聴いたしました天皇陛下のお声は、低音と高音が同時に発せられる倍音(*)でした。深く心に響く素晴らしいお声で、お歌もお上手でいらっしゃるのではと想像いたしました。
(*)倍音~一つの音を構成する部分音は、最小振動数の基音と、それ以外の上音である。上音のなかでも、基音の整数倍振動数を持ついくつかの部分音(たとえばオクターブ上)を倍音という。ハーモニックス(harmonics)。
翌年春、妻は園遊会にもお招きをいただきました。配偶者も出席して良いとのことでありましたので、今度は背広を新調して、赤坂御苑の方に同行いたしました。美しい雅楽、荘厳な吹奏楽が奏でられ、参列者は皆、その風景に溶け込んでおりました。私は、もうそれだけで幸せ一杯でしたが、妻の方は、発言に失礼があってはならないとそればかりを考えて緊張しておりました。天皇ご一家は芝生の丘の上からゆっくりと下りていらっしゃいました。私たちの緊張もピークに達していました。陛下はにこやかにゆっくりと、「お二人で歌をお作りになるのはご苦労もおありでしょうね」と妻にお声かけ下さいました。妻は「はい。仲良く喧嘩をしながら作っております」と申し上げたのですが、陛下には一部お聞きとりづらいところがあったご様子で、少し身を乗り出されるような姿勢になられました。慌てた妻は、「離婚を考えたことも度々でございます」などと申し上げてしまいました。
おかしな発言は慎むようにと申しておりましたのに、あとの祭りでございました。夕方のニュースでは園遊会の模様が録画中継で放送されていましたが、私たちのところはその件(くだり)ばかりでございました。陛下から私の方へは「作曲もご苦労がおありでしょうね」とお声かけ頂き、勇気のわく心に響くお優しいお声でございました。皇后陛下からは「あなたは俳優もなさっておられるのですね。明日、あなたの出演していらっしゃる映画の試写会にお招きを頂いております」という内容のお言葉を頂きまして、私はレコーディング中でしたので試写会には欠席する予定でしたが、慌てて出席にさせて頂きました。三枝健起監督の『オリヲン座からの招待状』という映画です。二時間あまりの上映中、皇后陛下はシートに背中をもたれることなく背筋をまっすぐにのばされ、ご覧になっておられました。そのお姿に非常に感激いたしました。別室にて製作者、出演者にお声かけがございました。この作品での私の役柄は映画館の映写技師で、前半三十分ほどで病死してしまう役でした。皇后陛下は「あなたはすぐに亡くなられてしまわれたけれども、こうして生き返ってこられて良かったですね」と仰いました。そして、「昔は映画館が町に何軒もございましたね。三本立ても見に参りました。一本目二本目とチャンバラでございました。三本目は何かなと思っておりましたら、エノケンでございました」とユーモアたっぷりに思い出をお話下さいました。
二日続けて皇后陛下にお声かけ頂いたこと、私の大いなる喜びであり自慢でございます。特集記事などの報道写真で改めて拝見する両陛下の仲むつまじいお姿は、心に安らぎをお与え下さいます。御大婚五十年をお迎えになった天皇皇后両陛下の、ますますのご健康をお祈り申し上げ、私のお祝いのご挨拶とさせて頂きます。
潮 匡人(評論家)
平成五年の出来事である。日本を代表する週刊誌がトップ記事に次の見出しを掲げた。
「天皇・皇后両陛下は自衛官の制服がお嫌い」
当時、私は現役の航空自衛官(制服組)であった。立憲君主制の我が国において、事実上の軍隊である自衛隊は、本来、皇軍たるべき武力集団である。軍人にとって制服は誇りの象徴でもある。もし、記事が事実なら、存在意義が疑われよう。
記事は、訪欧から御帰国された両陛下を、当時の空幕長が背広姿で出迎えた経緯を取り上げていた。空幕長に制服を脱がせたのは誰か。真相は藪の中だが、両陛下が制服を「お嫌い」との証拠は記事中になかった。
以降も、両陛下は政府専用機に御搭乗されてきた。政府専用機は航空自衛隊が運航している。平成五年当時も、専用機に搭乗していた航空自衛官は階級を問わず、両陛下から、ありがたい慰労の御言葉を頂戴してきた。右記事を事実と受け止めた航空自衛官を、私は一人も知らない。
天皇・皇后両陛下の御聖徳に全自衛官が感謝申し上げている。私もその一人である。
蛇足ながら、平成十年の私事も明かそう。当時、私は某全国紙で匿名コラムを連載していた。ある日、編集担当記者から電話が掛ってきた。
「実は、宮内庁から社の幹部に問い合わせがありました。あのコラムを書いたのは、どのような人物か。お上がお知りになりたいそうです。会社としては、潮さんに異存がなければ、今回は例外として筆者を明かしても構いません。どうしますか」
もちろん異存などあるはずもない。かくして匿名ルールは破られ、愚生の名前が奥に達した(と伝え聞く)。ちなみに、当該某紙は、全国紙の中で最も保守的な論調を掲げる。
もし、天皇陛下が自衛官の制服も、保守思想も「お嫌い」なら、拙文が陛下の目に留まることなどなかったはずだ。もとより陛下のお気持ちは伺う術もない。いかなる御感想を持たれたのかも推測の域を出ない。ただ、陛下が、凡百の新聞人や言論人の及びもつかない〝読み手〟であられることは容易に推知できる。
かつて福田恆存は「言論は空しい」と書いた。〝書き手〟が共有する思いであろう。正直、私も例外でないが、そう嘆くことは不遜に過ぎよう。活字は後世に残る。本来、それだけで知足すべきだが、加えて私は、平成の御代に、書くことの意義を与えられた。恐懼に堪えない。
遠藤 浩一(拓殖大学大学院教授)
先帝昭和天皇が摂政にお就き遊ばされた大正十二(一九二一)年、大陸では中国共産党が創立され、翌年その北方にソ連邦が建国されました。それから六十八年後の平成元(一九八九)年、昭和天皇が崩御されると、一年もたたぬうちにベルリンの壁が崩壊し、欧州では共産主義の敗北といふかたちで東西冷戦に一応の決着がつきました。してみると、先帝陛下の御代は共産主義の脅威と果敢に闘つた時代、といふことになりませう。この間国際共産主義勢力はわが国の皇統を敵視し、さまざまな工作や攻撃をしかけてきましたが、わが日本国はこれを静かに退け、伝統と歴史の上に自由と民主主義を発展させるといふ文明史上の壮挙を成し遂げました。
しかし冷戦後の世界は、決して歴史が終はつたわけではなく、特に東アジアは深刻な問題を抱へたまま今日にいたつてをります。ベルリンの壁が崩壊する少し前にお隣の中国では天安門事件が起こり、人民解放軍によつて自国の人民を蹴散すことによつて冷戦の敗北を回避したばかりか、その後毎年二桁の軍拡を続けてゐます。北朝鮮によつて拉致された同胞の一部は帰国が適ひましたが、全員救出の目処はたつてゐませんし、かの国は核開発を強行し、弱者の恫喝によつて不公正な利益を得ようとしてゐます。飜つてわが国は、ポスト高度成長の経済運営において試行錯誤を重ね、いささか疲弊し、現在の生活や将来に対して不安をもつ国民が増えてをります。
わが国にとつてこの二十年は、平らかに見えて、実は激動の連続でした。それは後世の歴史家が振り返つたときに明らかになりませう。にもかかはらず、私ども民草が大過なく日々のなりはひに専心してこられたのは、陛下の、国安かれ、民安かれとのお祈りがあつてのことと存じ上げます。
私どもはいま、内政外交にわたつて試練の秋を迎へてをります。和辻哲郎は「尊皇思想はわが国民の生活の根強い基調であつて、いかなる時代にもその影を没したことはない。権力を有する人たちがそれを忘れた時にも、国民は決して忘れはしなかつた」(『尊皇思想とその伝統』、傍点引用者)と喝破いたしましたが、陛下の大御心のもとで、私ども民草が尊皇の心を失はなければ、この難局も、かならずや打開できるものと確信いたします。
呉 善花(拓殖大学教授)
私は私自身の日本体験を通して、天皇が国民統合の象徴であり得ているのは、何よりも皇室が、日本人の歴史的・民俗的な生活のあり方のなかにその根をもっているからだと感じてきました。どんな国でも民衆の生活のあり方は、時代とともに変化していきながらも、古くから人々の間に伝わる風俗や習慣や信仰などを、つまり民俗を保存しています。日本の皇室はその保存されていく部分に根をもち、国民生活の時代的な変化の相を見事に映し出しながら推移してきたように思います。
民族も文明も時代のなかでさまざまな変化をとげていきますが、なお容易に変わることのない個性--お国柄とか国民性とかいうものがあります。それは、ある時代に統一体として形成された文化の基層に根ざしたものであり、それがそれぞれの民族の心のあり方や行動のあり方を大きく方向づけているのではないでしょうか。日本の皇室はそうした日本文化の基層に根をもっていて、だからこそ、現在にあって国民統合の象徴であり得ているのではないかと私には思われます。
そのうえで皇室の持続について考えてみますと、皇室がもっている時代感覚の鋭さに驚かされます。これは柔軟性といってもよいのですが、皇室は単に伝統を維持するだけではなく、国民生活の時代的な変化の相を巧みに掌握しながら、自らの装いを新たにしつつ推移してきたように思います。時にのぞみ、成り行きの変化に応じ、どのように自らを処せばよいか、皇室はそこのところのセンスを何か本質的に抱えもっているように思えます。
たとえば「おきさき選び」です。平安中期、国風文化の隆盛とともに女性の手になる文学が登場するようになる時代の定子皇后は、清少納言が一目おくほどのすぐれた知識と才能の持ち主で、ゆったりとした落ち着きを湛えた美人だったことが『枕草子』からうかがえます。美智子皇后のケースでも雅子妃のケースでも、それぞれの時代精神との絶妙な距離感を、皇室の「おきさき選び」の背景に感じとることができます。
こうした時代の移ろいに対する皇室の臨機応変さは、長きにわたって天皇制を持続させてきた大きな要因として、けっして無視することはできないでしょう。また、国民統合の象徴としての天皇が国民の圧倒的な支持を得ているのも、伝統の持続とともに、そうした時代に対する向き合い方の的確さがあってこそのことではないかと思います。その点で、昭和天皇、今上天皇、皇太子殿下、いずれも見事なばかりと感心することしきりであります。御即位二十年を心からお慶び申し上げます。
岡崎 久彦(NPO法人岡崎研究所理事長・所長)
「昭和から平成へー。私たちは歴史の転換点に立つ重みを、ふるえるような思いのなかで体験している。新しい時代は何がどう変わるのか、あるいは変わらないのか。・・・」
平成元年一月十一日の産経新聞は、こんな見出しで諸子の評論を掲げ、私も及ばずながら一文を寄せたことがあった。
その後二十年を経て、私は、今や、皇運の無窮を信じるに至っている。
その理由は難しいことではない。両陛下の御日常を拝見してのことである。それも私は両陛下のおそばに居たわけでもない。遠くから拝見していただけである。
両陛下の御日常は、常に国民(くにたみ)の上に御思いをはせられることで成り立っている。
それが君主の務めであり、そのために一般人には与えられていない特殊な待遇が与えられているのは事実である。たしかに、どんな職業でもそれに伴う義務はある。しかし、それは労働の時間内での話であり、その行住坐臥まで縛るものではない。
ところが陛下の場合は御日常までも、くにたみのためであることが要求される。自分で求めてその道に入った宗教者、修験者ならばそれも分かるが、御自分の御意図にかかわらず天命によって課された義務なのである。
私がもっと驚くのは、陛下にお仕えする者たち全てがそれを当然のことと思い、誰ひとり疑問を持っていないのである。
こんな宮室は世界では全く類例を見ないと思う。その意味で、万邦に比類がないというような形容詞を使っても、何の違和感もない。
そう思って歴史を振り返ると、日本には世界史上どこにでもある、皇帝に阿り悦楽を勧める佞臣、奸臣が居ない。奈良朝後は、実権が藤原氏、また武家に移って、皇室は象徴的存在だったという特殊な歴史もその背景にあろうが、それが遺した伝統は千年にわたっている。これは世界に稀な伝統である。
御即位の前後に皇室の前途を懸念する声もあった。ヴァイニング夫人の米国風デモクラシー教育の影響を憂慮する声もあった。しかし、個人の教育、個人の志向にはそれぞれ違いがある。問題は陛下が常に誠心誠意であらせられたかということである。そして、両陛下のご誠意には誰一人疑いを持つ者が居なかったと断言できる。
天皇皇后両陛下おんともども、二十年間よくお努め頂いたと思う。我々一般人でも頭の下がる御努力である。それだけでも世界史上驚嘆すべきことである。ましてお仕えするもの全員がそれが正しいと思って、何の疑念も持っていないことに、制度としての日本の天皇の伝統、と権威が存在する。
皇室がこういう御姿勢であられる限り、またお仕えする人々がその信念を変えない以上、今後とも、皇室が国民の信を失うということは想像できない。
天壌無窮、万邦無比という言葉は、こういう実態を反映したものであると思う。
小野田 寛郎((財)小野田自然塾理事長)
御即位二十年を迎え、聖寿万歳を三唱したい思いが一杯です。
国安かれ、民安かれと日夜お祈り下さる陛下の御日常を拝する時、時の流れ、時代の移りに関わりなく、明治育ちの両親が頑なに言い続けた「天長様」が真実のお姿である様に思えてなりません。
さて、昨年はブラジル移住百年に当り、日伯交流年・移住百年記念式典が、移民船出航に因んで四月に東京と神戸で、ブラジルでは入港の六月に日系人の多く住むサンパウロを主に他の地域で挙行されました。
東京の式典には天皇皇后両陛下とこの式典の名誉総裁であられる皇太子殿下が御臨席になり、ブラジルよりは大統領代理の外、多数の代表者が訪日参加されました。
殊に空軍司令官斎藤大将が参列されたことは、この上ない幸いでした。
と申すのは、私達の先輩一世が念願した日系人の大将が、入植九十八年にして初めて実現したからで、日系人代表として相応しい方でした。
陛下を咫尺に拝し、移住者に対する恵み深き大御心を承り感無量でございました。
こうしたことがあってか、帰国した友人から、皇太子殿下のブラジル国内の移動は総て空軍機が利用され、サンパウロの会場には空軍機によるデモンストレーションも実施されると嬉しい報告がありました。
総て天皇陛下の御稜威のしからしむるところでせう。
降って私事になりますが、平成四年秋の園遊会にお招き頂き、微力ながら十年来続けている青少年健全育成事業の「自然塾」ほかの御下問があり、且御励ましの御言葉まで賜りました。家門の誉れこれにすぐるはなく、亡き両親に報告いたしました。
更に遡れば、三十一年前の昭和五十三年六月、ブラジルで移民七十年の式典が催されましたが、天皇陛下は当時皇太子であられましたが、御夫妻でこの催しに御臨席下さいました。
御出迎えの代表者の一人、私の州の代表者に「小野田は元気か」とお尋ね下さったと傍らに居た私の媒酌人でもある邦字新聞の社長様から知らせて頂きました。
この時私は入植四年目で、移民の誰もが辿る天に雨を乞いつつ涙と汗に濡れる日々で一千キロメートル離れたサンパウロに御出迎えに出掛ける余裕はありませんでした。
この様な不躾者の私にまでお心をお配り頂いていることに感泣せずにはいられませんでした。
十年前の御即位十年の年は幸にも東京にいてお祝いすることが出来ました。あの劇的な小雨の裡の晴間に両陛下のお姿を仰げた時は、現人神とさえ教えた両親の言葉が蘇りました。私は日本人なら理屈は無用だと思います。天長様、天長節でよいのです。
加瀬 英明(評論家)
天皇皇后両陛下御在位二十周年を、国民挙ってお祝いしたい。この佳節は日本のすばらしい国柄について考える、よい機会である。
天皇は歴史を通じて日本国民の精神を束ね、国民に一体感をもたらしてきた。
昨夏の総選挙が地滑りのような政変をもたらしたために、多くの国民が日本の行先について、いいえない不安をいだいている。国民はそれにもかかわらず動揺することなく、外国から見ても国の安定感が失われることがない。麻生内閣まで内閣がせわしく短命で交替した時も、同じことがいえた。中国や韓国とは国の成り立ちが、まったく異なっている。
日本は天皇を戴いてきたことによって、世界に比うものがない国となっている。天皇が二千六百年以上にわたって蓄えてきた力によるものである。
天皇の霊的な力の源は、どこから発しているのだろうか。歴代の天皇が、無私であられたことにある。
今上陛下は百二十五代目に当られるが、歴代の天皇のなかで贅に耽ったり、国民を苦しめたり、専制を行った例は一度たりともない。天皇は私を持たれることがなく、つねに国民の幸せを、ひたすら願ってこられた。また、質素を旨とされた。他国であれば、このようなことは考えられない。
無私は市井の人にとっても、これ以上の徳はない。質実であることも、重要な徳目である。天皇を戴いてきたことが、日本に高い品格を与えてきた。
ある外国の大使が新宮殿にあがった後に、私に「日本について新しい発見をして、息を呑みました。天皇陛下の宮殿は世界でいう宮殿ではなく、伊勢神宮と同じように簡素で厳粛な雰囲気を湛えていました。世界の他の宮殿はみな贅を盡して絢爛豪華で、人を威圧します。日本を理解しました」と、語った。
天皇はこれをなさらないと、天皇ではない二つのことがある。天皇はそれによって、他国の国王と大きく異っている。
日本の皇室との違いは、日本では天皇が親しく神事を執り行われる。日本の最高神官として祭祀を司ることと、お歌の伝統を継いでゆかれることである。お歌も祈りである。
国会開院式に臨席される、国賓を迎える、法律に署名されるようなことは、明治以後に定められたことで、時代による制度である。
天皇陛下は年間を通じて十回以上、宮中三殿で親しく祭を執り行わられる。超近代大都市の東京の真ん中に、緑の小島のように皇居が浮かんでいる。その皇居の中心に、宮中三殿がある。
天皇陛下はここで、神と一体になられようとお努めになられる。あらゆる宗教や、信仰は、神や仏と一体になろうとするものだ。陛下が国民を代表されて、神にできる限り近づこうとされるのだ。ただただ、有難い。
天皇皇后両陛下の万歳を、高らかに三唱したい。
釜本 邦茂(日本サッカー協会名誉副会長)
天皇陛下御在位満20年、心よりお慶び申し上げます。
天皇陛下に初めてお目にかかったのは、まだ皇太子殿下として全国各地での行事にお出ましになられていたころです。翌年にメキシコ五輪を控えた昭和42年6月、駒沢競技場でブラジルのプロチームのパルメイラスを迎え、日本代表と親善試合を行いましたが、私もその一員としてピッチに立っていました。
試合前、観戦に来られた皇太子殿下と妃殿下が両チームの選手一人ひとりをピッチ上で激励されました。私はチームで最も若い選手だったこともあり、最後尾にいましたが、自分の番がまだかまだかと大きな体をさらに背伸びして何度も覗き込んでいたのを昨日のことのように覚えております。
当時はサッカー人気も低く、サポーターもほとんどいない状況でしたが、翌年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得することができたのも、このときの激励があったからだと信じております。「頑張ってください」という短いお言葉でしたが、このことでどれほど選手が励まされチームが心を一つになれたことか。現在の日本のサッカーの原点になっているといっても過言ではありません。
メキシコ五輪で銅メダルを獲得したことで皇居にお招きいただいたり、参院議員として園遊会に出席させていただくなど、お目にかかる機会はありましたが、やはり印象深く残っているのは平成14年7月、横浜国際競技場で行われた日韓共催のワールド・カップの決勝戦に、天皇陛下として初めてスタンドからサッカーを観戦されたことです。
大会終了後、宮内庁を通じて「日韓共催のワールド・カップが滞りなく終了したことを喜び、この経験が日韓両国民の親善関係の増進に役立っていくことを期待しています」とのお言葉をいただいたときは、サッカー関係者の一員として深い感動を覚えました。
私が団長をした平成18年のワールド・カップドイツ大会直前にも、監督や選手たちが皇居に招かれ、陛下の温かいお言葉に全員が深い感銘を受け、チームが一丸となることができました。日本のサッカーが世界に通用するようにサッカー界をあげて努力しております。その励みの先に陛下の温かい励ましのお心があると思っています。
天皇陛下にはスポーツへの深い関心を示していただくと同時に、常に励ましのお言葉を賜わり感謝しております。陛下の御即位満20年をお祝い申し上げ、皇室の益々の御繁栄を祈願しております。
小林 よしのり(漫画家)
天皇陛下におかせられましては、御即位二十年をお迎えになられましたことを心よりお祝い申し上げます。
風刺を本分とする漫画を描き、どんな権力や権威に対しても批判精神を向ける性分が身についている私が、陛下の大御心の有難さにやっと気付き始めましたのは、恥ずかしながら三十代も後半になってからでした。
平成四年の山形国体で、暴漢が発煙筒を投げる事件があったとき、とっさに陛下の身を守られた皇后陛下の凛々しいお姿をテレビで見た瞬間から、私は皇后陛下への畏敬の念を持つようになったのはもちろんですが、同時に天皇陛下の御存在そのものへの関心が日に日に増すようになったのです。
震災に見舞われた人々への慰労で膝をつく陛下のお姿や、老人ホームのお婆さんの肩をもむお姿、サイパンで深々と頭を垂れる後ろ姿などを拝見しながら、私はもうすっかり陛下の優しさの裏にある強さに敬服してしまいました。
男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない、という言葉がありますが、徹頭徹尾、国民の安寧を祈り、この世の弱い人々に心を寄せられる陛下の優しさの裏に、どれほど強い意志の力があるかということに気付いたのが、なんと不惑の歳を越えてからだったというのが、まったく私の不明であります。
かつてまだ日本の占領期に、家庭教師のバイニング夫人に将来を尋ねられ、「I shall be the Emperor」ときっぱりと答えられたそうですが、その少年時代の覚悟が微塵も揺らぐことなく、祭祀を大切にされ、国家・国民のために使命を果たされ、品位あふれる天皇になっていただきました。
私も天命を知る歳となり、恐れながら今年は『天皇論』を上梓させていただきましたが、これは今までの私の禊の書であります。不明を恥じた私が、陛下と皇室の方々のありがたさを、出来るだけ多くの人々に気付いてもらうために描きました。
その読者の感想の中に、二十六歳の男性のこんな文面がありました。「僕は小学生のころ、阪神大震災に遭ったとき、天皇皇后両陛下が神戸に来て元気づけられたのを、今でもはっきり覚えています。他のタレントが神戸に来ようが、神戸市民の涙は、天皇皇后両陛下が来るまで癒されなかったです。それだけ天皇というのは、私たちの心の中で眠っているのだと思いました。日本には世界に類を見ない奇跡の物語が続いていた。日本が世界に誇るべき日本人物語。国家・国民のために祈り続けている無私の心・・・」
陛下の大御心は確かに多くの国民に伝わって、生きる希望を与えてくださっているのです。
最近では陛下や皇后さまの御体調が気になります。公務をなるべく減らしてでも、長生きして私共国民を見守っていただきたいと願っております。
ここに改めて天皇陛下への感謝と御即位二十年のお祝いを申し上げると共に、一層のご健勝と皇室の弥栄をお祈り致します。
小林 正(元参議院議員)
天皇陛下御即位二十年、御成婚五十年という二重の慶賀すべき年を迎え、国民の一人として天皇皇后両陛下に心からのお祝いと感謝を申し上げます。
混沌とした内外の情勢の中、御公務に精励される報道に接し、国民はその都度安堵と希望を取り戻して参りました。
私は誠に畏れ多きことながら、今上陛下御生誕の年にこの世に生を受け、御成婚の昭和三十四年に明治記念館にて挙式し、今年夫婦共無事に五十年を迎えました。天皇皇后両陛下御成婚五十年と重ねながら来し方を偲ぶ日々です。さらに申し上げれば、平成元年参議院議員として国政に参画することとなり、平成二年、即位の礼への参列の榮に浴しました。
今年、白露の頃、妻と共に多摩武蔵野御陵に参拝致しました。昭和天皇の御遺徳を偲びつつ、遠く去り行く昭和への哀切の思い一入でした。
神話に源を発する万世一系の第百二十五代の今上陛下、皇后陛下、皇室御一家の愈愈のご繁栄をご祈念申し上げますと共に、比類なき皇統を磐石のものとするために尽力することが私達の子々孫々への責務であることを改めて痛感しております。我が国の誇りある歴史と伝統を重んずる全ての人々と共に力を合わせて進めて参りたいと思います。
小堀 桂一郎(東京大学名誉教授)
本年十一月十二日、天皇陛下には即位の御大典御挙行満二十年といふ、寔に慶賀すべき記念の日を迎へ給ふことになります。御登極以来二十年の歳月、陛下は皇后陛下と親しく手を携へられて、日本国元首・国民統合の象徴としての寳位にこの上なくふさはしい威厳と慈愛との御眼差を民生の上に注いで来られました。
今を去る六十余年の過去、先帝陛下の御代に、我国は自存自衛のための総力戦遂行を、国家全体の運命としてうけがはざるを得ませんでした。その聖戦の完遂といふ使命に己が一命を捧げ、異邦の土と化したまま形魄は未だに故国に帰れずにゐる皇軍の将兵・民間人の霊を慰めるべく、南方洋上の孤島にまで両陛下お揃ひで鎮魂の祈りの旅を果し給うた御事は、国民の記憶に鮮烈に灼きつけられてゐる御行禮であります。
国内では、不慮の災害に遭つて親族・家産を失ひ、心身共に傷つき疲れた被災者を慰め励ますための不時緊急の御旅行に、御自らの御病身を顧みることなく、どの様な遠隔不便の土地へも、又時節の悪条件を物ともせず、度々の御巡幸を敢へてせられました。
この二十年の歳月に、蒼生の安寧を只管御軫念下さいましての数々の忝き天恩に向けて、国民一統如何ほどの感謝の念を捧げれば以て足ると言へるのか、測る術もなく戸惑ふばかりであります。文字通りに私を無と為して、衷心常に国土と国民の安泰と繁栄とを皇祖の神霊に祈念せられ、現実にもお力を尽して行動し給うてゐるその大御心に対し、国民の方は余りにも公への奉仕の心を蔑ろにし、専ら己一個の欲求の満足に向けての営みに浸り切つてはゐなかつたか、天下泰平の夢に溺れて日夜安逸を貪るだけではなかつたか、との改めての反省を迫られるのであります。
折から御即位二十年の記念式典挙行といふ慶事がめぐつて参りますのは、国民の反省を転じて今こそ公益増進・背私向公の前途に向けての実践に移すべき好き機会であります。国民はこの機会に心気を新たにして、寳祚の無窮と国体の尊厳といふ肇国以来の邦家の道統を守りぬかんとの志を固めてをります。そのことのみが、皇恩の優渥に応へ奉るべき蒼生の側の必須の責務であることを銘肝いたします。
謹みて、皇室の弥栄をことほぎ、寳算の長久を祈念し奉りますと共に、国民各自が内には家門連葉、外には職域世務の場に於いて、君国の臣民たるの道を一意専心踐み行はんとの念願を聞え上げ奉るものであります。
佐藤 愛子(作家)
天皇皇后両陛下が御大婚五十周年をお迎えになりましたことを心よりお慶び申し上げます。昭和八年、陛下がお生まれになりました時、私は小学校五年生でした。その頃、内親王のご誕生が続き、皇室も国民もこぞって日嗣御子(ひつぎのみこ)のご誕生を待ちもうけておりましたときに、皇太子殿下がお生まれになったわけです。全国が熱狂しました。私も旗行列に参加して、
「日嗣御子は生(あ)れませぬ、日嗣御子は生れませぬ」
と歌を歌って、勢いよく日の丸の小旗を振ったことを覚えております。私の父は、神棚に御灯(みあかし)をあげまして日嗣皇子が御誕生になりましたことを神様に感謝し、将来の皇室がご安泰であられますようにと、長いこと祈っておりました。
昭和八年という年は、軍事色が強まっていた時代で、それ以降は日独同盟、中国との戦争から、アメリカ、イギリスを向こうに回すという状況にまでなっていきました。だんだん戦況が悪化していった昭和十八年に、皇太子殿下が栃木県の日光にご疎開遊ばされたという新聞の報道を読みまして、私は何かずしんと奈落の底に落ちていくような気がいたしました。皇太子殿下が皇居を離れて、田舎にいらっしゃるということは、そこまで日本の戦況は切迫しているのかと。当時、殿下は十歳でいらっしゃいました。十歳といいますと、まだ両親に甘えたい少年もいるような年頃でございます。そんな時分に殿下は、田舎へ疎開なさいました。陛下の孤独はその時から始まったように私は思います。もう、十歳の頃には、将来天皇におなりになる方としての帝王学もお受けになっておられましたでしょうから、国の先行きを思ったり、ご自分が背負わなければならない重責を思ったり、不安に駆られたり―慰めて励ます人はおられたのかどうかは分かりませんが―そういう孤独を背負った十歳というのは、私はいま思うだに心が痛みます。
それから日本は戦争に負けまして、十二歳の時に殿下は東京にお戻りになりましたが、焼け果て、焼けただれた東京をご覧になって、本当にびっくりなさったということで、その時のお気持ちを忖度いたしますと胸迫る思いがいたします。
やがて昭和三十四年になって覆っていた雲が晴れました。美智子様との御成婚によって、殿下の孤独は無くなった、あぁ良かったとひそかに安堵しておりました。その時に殿下の英語の家庭教師をされていたヴァイニング夫人が、美智子様のお写真を見られてこういうことを仰ってます。「私の心が思わず歌い出したほど、勇気と優しさと聡明さに満ちたお顔だった。私はこれで大丈夫だと思った」と。ヴァイニング夫人はそう思いながら東宮仮御所を訪問しお祝いをなさったのですが、それについてこう書いています。
「私は殿下にお目にかかって、すぐ殿下がお変わりになっておられるのを感じた。殿下は幸福そうであった。そればかりでなく、深い内的な自信をお持ちのようだった。それはあるものを得たいと心からお望みになって、その目的を達するためにあらゆる努力をお傾けになり、ついにみごとに目指すものを獲得なさったところから生まれてきたものであった」
ここで、陛下の孤独の雲は完全に拭い去られたと私は思います。ところが、国民がこぞってお祝いをした時が過ぎますと、今度は、皇室が神秘の扉の向こうにあった時代には無かったような新しい雲が現れてきまして、そのうち五十年経ちました。この五十年で、日本はすっかり変わってしまいました。率直に言いますと、言いたいことを言える時代、したいことを出来る時代。それに、美しいものと醜いものとが混乱してしまっている時代。価値観の多様化などと言って、かつての日本人が少しずつ変貌しつつあって、そしてついに今日に来たという、私のような大正生まれはそういう感を殊に強く持つようになっております。
しかし考えてみますと、国民は、自由気ままに享楽的に暮しているにもかかわらず、皇室は少しも変わっておられない。天皇陛下の無私と寛容、そして皇后陛下の努力と忍耐力。お二方共に強靱な精神力をもって培われた美徳だと私は思います。お二方だけが日本人の伝統的なあるべき日本人の姿を失うことなく私たちに示しておられるのです。だけど、私たちはそれを天皇皇后お二方だけのお姿として、お手本にしようという気持ちも失っております。
皇后陛下が、天皇陛下御即位十年の天皇誕生日に詠進されたなかにこういう御歌がございます。
うららか
ことなべて御身ひとつに負ひ給ひうらら陽のなか何思すらむ
この御歌にあらわれる皇后様の天皇陛下に対する切々たるお気遣い、私はこの御歌を拝するたびにその美しいお気持ちに、胸打たれます。お二方は、私たちが苦しい人生を生き抜くための、私たちのお手本だと私は思っております。これからは両陛下の御心が安らかにあらせられますように、それのみを私は祈っております。
三遊亭 金馬(日本演芸家連合会長)
天皇皇后両陛下、お揃いで御公務にお出遊ばされ、和やかに行事を務められるお姿を拝する度、私は心より嬉しさがあふれて参ります。
天皇陛下が、御田植、稲刈をされる時、日本の伝統を守られる大事な御方と有難さが一杯になります。
先般、葉山御用邸におかれて、和船をお漕ぎになられるお姿を拝し、現在の日本人が忘れてしまった事まで大事にお持ちになられると、只、只、感激の極みでございました。
どうぞ、お健やかに、両陛下の聖寿の長からん事を心よりお祈り申し上げます。
篠沢 秀夫(学習院大学名誉教授)
天皇陛下 心よりお喜びを奉呈申し上げさせて頂きます。
御即位より早くも二十年でございます。わが国は、幕末以来昭和半ばまで、十年すれば動乱や戦争で世が変わる時代が続きましたが、昭和三十九年、一九六四年の東京オリンピックに備えての東海道新幹線、首都高速道路設定以来、長期同質社会となっております。
陛下の年中を通じての国民安泰のお祈りが、まさにこの平和な長期同質社会を静かに支えていて下さるのです。有り難うございます。
陛下と同年の昭和八年、一九三三年生まれの私は、幼時より新聞の写真などで陛下のお姿に「コウタイシサマ」として親しんで育ちました。
そして戦後、昭和二十八年、一九五三年にフランス文学科に行きたいばかりで新制学習院大学に一年遅れで入りました。図らずも陛下のお姿を校庭で拝見するようになったのです。思えばそれはその年の秋からでした。春先から数ヶ月にわたる船による欧米旅行で、英国のエリザベス二世陛下の即位式に御臨席になって秋に御帰国だったのです。
警備官憲が学内に入れない当時は、お送りしてきた護衛たちは正門裏で待機、校庭では陛下はいつも同じ顔ぶれの数名の男子学生、御学友に囲まれて、ゆったりと、真っ直ぐ歩いておられました。それが、年の暮れにお誕生日をお迎えになった次の年からは、真っ直ぐお歩きなのは同じですが、何か、きりっとして進んで行かれるのでびっくりしました。
これは、のち教員として学習院大学で暮らすうち、陛下の御長男皇太子殿下、御次男秋篠宮殿下の学生時代のお姿を校庭で拝見して、お誕生日後にきりっとなる同じ現象に驚き解明しました。二十才のお誕生日には成年式があり、皇太子の場合は大勲位菊花大授章という、一般人では何度も首相を勤めた吉田茂氏が受けた勲章を授かるのです。御次男の場合は少し違うにせよ、学習院大学二年生としてお仲間とゆったり暮らしている身としてはあまりにも高位です。その衝撃が皇族としての責任を自覚させ、その自覚が、あの、きりっとしたお姿に現れるのです。その解明後、私は「皇室は皆で支える文化遺産」と説き、かつ、「ここで言う皆の中には皇族も入っている」とつけ加えています。皇族としての責任を自覚することが肝心なのです。
おお、昭和五十五年ごろから、学習院大学の馬場で、正月の第二日曜日に、昭和六十三年まで毎年、陛下にお目見え致しました。学習院大学馬術部のOB会、桜鞍会の初乗り会でした。正式に乗り始めたのは中年からの私と違って、陛下は高等科の馬術部キャプテンであられ、この初乗り会にも三十年以上御参加、古式皇統馬術の競技に出ておられましたね。
島倉 千代子(歌手)
御即位二十年 おめでとうございます。
激動の二十年であられたと思いますが、これからもお身体に気をつけられまして、国民ひとりひとりをあたたかい光で見守っていただきたいと思います。
千 玄室(裏千家前家元)
天皇陛下御即位二十年という記念すべき年をお迎えになられましたこと、誠に御芽出度く心からお慶びを申し上げます。
私は先帝陛下の御在位の中で長い人生を送ってまいりましたので、こうして今上陛下の御即位二十年も御祝い申し上げることが出来るなどとは到底思いも致さぬことでございました。二十年前、ご即位の場に御招きを賜わり、亡き妻と列席の栄に俗したことは一生の大きな宝物として有り難く存じております。そして今尚、当時の御式の有様を想い出しております。
また平成九年には、文化勲章の栄を陛下から直接賜わり、受章者代表として御挨拶をさせていただきましたことは、私にとりまして大変な栄誉あることでございました。
思えばさらに五十数年前、私が日本青年会議所会頭に就任いたしました折、御挨拶に副会頭と共に東宮御所へ伺候し、当時、皇太子殿下に坐しました陛下にお目通りさせて戴きました。一時間程の中でいろいろ御話しを申し上げ、御下問等もいただき全く打ち解けた時間でございました。将来の天皇陛下におなり遊ばします御方にふさわしく、御気配りのおありになる御方と感じたのでございます。
昭和十八年には、学徒出陣で海軍に入隊し、約二年間飛行科士官として御奉公いたし生き残った一人であります。多くの戦友が国の平和を祈って散華いたしました。私はこれら仲間の祈りをもって、世界人類平和のために一盌のお茶を奉げ念じ活動致しております。
天皇皇后両陛下のますますの御健勝と皇室の弥栄をお祈り申し上げ、御即位二十年の御祝いを申し奉ります。
高橋 史朗(明星大学教授)
天皇陛下御即位二十年を心からお祝い申し上げます。天皇皇后両陛下には、昨秋大分県で開催されました国民体育大会に埼玉県教育委員長として出席致しました折に、五分近くお言葉を賜る機会に恵まれ、大変感激致しました。
私からは昭和天皇御即位六十年の皇居二重橋前広場での集いで司会役を務めた日に、田中龍男元文相が皇居に参内され、昭和天皇と侍従長、式武官長に拙著『戦後教育の実像』を寄贈されたことについてまずお話させていだだきました。
その中には、私が在米占領文書の中から発見したアメリカの天皇制処理政策に関する国務省文書を分析してまとめた論文や、七箱に及ぶマッカーサー元帥に送られた昭和天皇に関する日本国民の直訴状、とりわけ、西荻窪在住の御婦人、伊藤たか氏が毎日血書で送り続けた昭和天皇助命嘆願の葉書、封書などの資料が含まれておりました。
今上陛下に次にお話させていただきましたのは、陛下が英語を学ばれたバイニング夫人にアメリカのバージニア州にあるマッカサー記念館でお会いし、昭和天皇がマッカサーと会見された際に“You may hang me.”(あなたは私を絞首刑にしてもよい)とおっしゃたという事実を当時の通訳から聞いたという『バイニング夫人日記』にも書かれているエピソードを紹介させていただきました。
マッサー夫人もそうでしたが、特にバイニング夫人の若々しさ、変わらぬ美貌と品性、魅力的な人柄に打たれたこともお話申し上げたところ、大変懐かしそうに「そう、そう」と大きく頷いてくださいました。当時を思い出されて感無量になられたのではないかと拝察致しました。
これらのエピソードにつきましては、同じく昨年埼玉アリーナで開催されました高校総体で皇太子殿下と十数名でお食事させていだだいた折にもお話させていただきました。皇太子殿下からは色々と御質問があり、恐縮致しました。
天皇皇后両陛下、皇太子殿下に直接お目にかかり親しくお言葉を賜る機会に恵まれました光栄に心から感謝致しますとともに、混迷を深める日本を末永くお導きくださいますように祈念し、天皇陛下御即位二十年のお祝いの言葉とさせていただきます。
竹本 忠雄(筑波大学名誉教授)
今上天皇陛下御即位二十年という歴史的慶事にあたり、新たなる感謝感激をもって思いますことは、日本には、雲井にまで伸びる光の心柱がそそり立ち、何事が起こりましょうともそれは微動だにせず、これを仰ぎ見ることで国民の一人ひとりが道に迷うことなく歩みゆける幸せということであります。
陛下の御高徳のお陰をもって、いま、私共万民の目に、かつてなく明かとなってまいりました──
日本と西洋(中国も含め)との一番の違いは、西洋においては君民の間の根本的不信の関係から革命が生じ、王侯皇帝が処刑または追放され、ここから戦乱に入ることのくりかえしだったことに引き比べ、我が国では、去る大戦において破れたるにも拘らず、かえって逆に君民の絆はなおいっそう緊密となり、誇るべき復興を得たのであった、と。
君主制と民主制(共和制)は対立するにあらず、元来、一つでありうべきものであるということを、陛下は、皇后様とともに、内外の御巡幸と慰霊の旅を重ねられることをもってお示しくださいました。その尊いお姿の一つ一つは、まるで奇跡を見るように全国民の目に焼きついております。避難民や戦争遺家族、身体障害者たちが、お言葉の一言にささえられて生き抜く勇気を見いだす光景をも、くりかえし見てまいりました。私は、ある護国神社を参拝した折に、そこの青年奉仕団が、行啓された天皇陛下からこのようなお言葉を賜ったという話を聴いて深く感動させられたことがあります。陛下は一同の労をねぎらわれて、こうおっしゃったと、若者の一人は喉をつまらせて語るのでした。
こう陛下はお示しくださったというのです。
そうです、「立派な日本人」となる以外に、どんな生き方が私たちに残されているでしょうか。
「マニフェスト」ばやりの世の中ですが、一九四八年、マルクス「共産党マニフェスト」に始まるどのような特定政治グループの宣言も、皇国日本最初の「ひじりの制(のり)」以上に
このような光の道に依らずして別の道へと向かうことが日本の歩みであるとは私共は思いません。世界は変わろうとも、それがより
御慶事を迎える国民の心はこのようでありたいと私は願っております。
田中 英壽(日本大学理事長)
天皇陛下におかせられましては、御即位満二十年をお迎えになられましたこと、謹んで御慶び申し上げます。
さて、私共、日本大学は、陛下が御即位なされました平成元年の十月四日に、創立百周年を迎え、高輪プリンスホテルで記念式典を挙行いたしました。その式典に天皇陛下、皇后陛下の御臨席を仰ぐことができ、陛下から「日本大学が、我が国社会の各分野において、国の発展と国民の幸福に寄与する幾多の人々を育ててきたことは、深く多とするところであります。国内はもとより、広く世界の様々な分野において、人類社会に貢献する人々が、ますます多くこの大学から送り出されることを切望します。日本大学が、百年の歴史の上に新たな一歩を踏み出すこのとき、その将来の一層の発展に期待する」との、大変有り難いお言葉を賜ることができました。まことに光栄に存じますとともに、陛下からご期待いただいておりますことを、教職員一同、身の引き締まる思いでおります。この式典から二十年が経過し、本学も今年創立百二十周年を迎え、現在、百二十五周年に向けて記念行事等の実施を検討しております。
この二十年、我が国最大の学校法人と自負いたします日本大学は、総合大学としての機能を十分に発揮する教育・研究機関として、多様化する国際社会に柔軟に対応できる人材の育成に努め、社会に多くの校友を輩出して参りました。卒業生総数も今年で百万人を超えました。陛下から賜りましたご期待に添えますよう、日本大学は今後も優れた人材の育成に鋭意努力して参りたいと存じます。
個人的なことではございますが、私はアマチュア相撲界、とりわけ大学相撲界に長く携わらせていただいております。皇室の皆様におかれましては、大相撲にも大変ご関心をお持ちいただき、相撲関係者の一人として篤く御礼申し上げます。平成十四年十二月八日、東京・両国国技館で行われました第五十一回全日本相撲選手権大会におきまして、天皇皇后両陛下にご来臨賜り、陛下から畏れ多くも「相撲の後継者育成に、益々尽力されますことを希望しています。」と直接お言葉を賜る機会を得ましたことは、恐悦至極に存じます。お側で接し、陛下の相撲へのご関心深さを伺い知ることができましたことは、この上ない光栄でもございました。
結びになりますが、日本大学全教職員を代表し、公務ご多忙とは存じますが、天皇皇后両陛下の益々のご健勝と、皇室の弥栄をお祈り申し上げ、お祝い申し上げさせていただきますとともに、感謝の言葉を申し述べさせていただきます。
つのだ ひろ(音楽家)
天皇陛下万歳と叫ぶ事のなんと清々しき事か、お祝いを申し上げたいという感情の発露と万歳という言霊の力が周囲の人をも揺るがして、やがて尊崇の念が会場いっぱいに谺(こだま)していく。
我々の愛する日本国は陛下がいらっしゃるからこそオリジナルな存在でいられるのです。陛下を頂いている国のシステムだからこそ日本国民は自分達の価値を世界に示すことが出来るのだと思います。
数千年に及ぶ世界に類を見ない万世一系という奇跡の継続は、それを守り続けた国民の勲章であり、これからも日本史の一ページとして長く留められる事を望んでいます。
日本国を、国民を、祭祀の最高権威者として、平和に、幸あれと日夜祈りを捧げ続けて下さり、高齢者、障害者、被災者にもお心をお寄せ下さる陛下。戦没者の慰霊に文化やスポーツの振興にまでお時間を割き、国民の範たるを実践されておられる陛下の大御心にお応えして、我々国民はそれぞれ公民として心からご在位二十周年を奉祝致します。
鶴田 真由(女優)
御即位二十年をお迎えになられた天皇皇后両陛下に心よりお祝い申し上げます。
長い年月、天皇皇后両陛下はお心をひとつにされ、常に国民の幸福と世界の平和を祈って、国内外をご公務でご訪問されました。左のお膝を痛められた美智子様を支えるようにして飛行機のタラップをご一緒に上られる天皇陛下のお写真を拝見し、どこへお出かけになられるにも、ともに手を取り合って歩まれた両陛下の強い絆を感じました。
両陛下は大規模な自然災害が起きた時、被災地へ駆けつけられ、被災された人たちに温かい励ましのお言葉をおかけになられます。両陛下のお見舞いに、被災された人たちはどんなに勇気づけられたことかと思います。被災地の一日も早い復興を祈られる両陛下のお気持ちは、広く国民の心に希望の光となって伝わったことと思います。
両陛下は国内のことだけではなく、平和を願って、遠く離れた諸外国にも想いを馳せられておられます。
『皇室は祈りでありたい』とお話しになられた美智子様のお言葉が重なり心に残りました。
私は昨年四月、第四回アフリカ開発会議(TICAD)の親善大使としてケニアと南スーダンを視察する機会をいただきました。現地の人たちは厳しい現実と向き合いながらも、「自立する元気なアフリカ」を目指して頑張っていました。
帰国後、今後の対アフリカ支援には何が必要かと問われましたが、先進国の一方的な支援ではなく、アフリカの成長を後押しするような、現地の人たちが本当に望んでいる支援ができたら一番良いと思いました。
世界中の人が、両陛下のように遠く離れた国の人たちのことにも心を寄せて考えるときが来ていると思います。
御即位二十年とともに御成婚五十周年をお迎えになられた両陛下、いつも寄り添うように仲睦まじくお歩きになる両陛下のお姿が、私たちの心には残っております。どうぞ、いつまでもお健やかにお過ごしください。天皇皇后両陛下のご多幸を心よりお祈り申し上げます。
中條 高德(英霊にこたえる会会長)
昭和二十七年四月二十八日は、わが国民にとって忘れてならない日である。今から六十四年前、戦い敗れ、そのサンフランシスコ講和条約発効の日である。即ち六年八ヶ月の連合軍の占領が終り、わが国の主権回復の重要な日である。
その日からほぼ五十日程前の事であった。
目白の学習院の正堂(大講堂)で皇太子さま(今上陛下)の高等科と、たった百名余の大学一期生の卒業式が一緒に行われていた。
香淳皇后の甥に当る久邇邦昭君(神社本庁統理)も同級生だった。当日は天皇・皇后さまもお成りであった。安倍能成(あべ・よししげ)院長から皇太子さまが卒業証書を頂くお姿を皇后さまは、満面笑みを浮べてみつめておられた。
それなのに、天皇さまは一点を凝視され微動だにされなかった。筆者は「天皇さま、人間宣言されたのですから皇后さまのように、皇太子さまの方にお目を向けて下さい」と心の中で叫び続けた。しかし、最後迄、全く微動だにされなかったのが、淋しく切なかった。
筆者は戦前、皇室の藩屏たらんと陸軍士官学校に学んだ。戦運急を告げていた昭和十九年四月二十九日に代々木練兵場(現NHK辺)で行われた旧軍最後の観兵式に生徒代表の一人として参列の栄に浴した。
陸軍大元帥の正装を召された颯爽とした天皇の玉座(お立ち所)の真横に整列した日の事が想起された。筆者は天皇さまの側の身が熱く感ずる程の感激にひたっていた。
明治七年の建軍以来、「軍人勅諭」で示された如く天皇が軍の観閲官であられた。因みに今の自衛隊のそれは内閣総理大臣である。
その感動の観兵式から一年半後に、かの有名な「地下壕のご聖断」に依って、あの大戦が終息しなければならない程戦況が切迫していたとは未熟な将校生徒などには、とても読みとることは出来なかった。
あの日の龍顔(りゅうがん)と戦後の卒業式の天皇さまのお顔がオーバーラップして見えたのだ。
今上さまの若き日の学習院ご登校は、警視庁のサイドカーの先導で入門されたが、校内は一般生徒と何ら特別扱いされなかった。
輔仁(ほいん)会大会(校庭運動会)などでは馬術部の売店で売り子をされた皇太子さまは金銭のやり取りに深い興味を示された。
その上、安倍院長、天野貞祐、小泉信三、ヴァイニング夫人らによって、あらまほしき平成の天皇像を磨かれていかれた。
その皇太子さまが旧来の皇室のしきたりを越えて民間の美智子妃を迎えられ、国民の喝采を受けられてから五十年。その皇后さまも天与のご英邁さとご忍耐とご精進とが相俟って、全国民から限りなく尊崇されておられるのが有難く、そして嬉しい。
平成の二十年は平和の時を刻んできた。築きあげた富の代償の如く、日本の心を喪った二十年でもあった。
この間、天皇さまは皇室の本質たる神祀り、先祖祀りに厳寒の冬も酷暑の夏も、ご誠実に、真摯に奉仕されてこられた。又、両陛下さまは国民の悩みや苦痛は、即ちわが身のそれと思し召され、災害が起れば何回も被災地を見舞われ、必ず現場では膝まづかれ、被災者と目線を合わせ見舞われる。それを受けた被災者たちは両手を合わせて涙ぐむ。
身近に爆弾テロをご体験されながら唯一の戦場となった沖縄には七回も行かれた。
島民も巻き込んだ激戦のサイパンにも慰霊の旅をされた。このように両陛下は国民との距離を限りなく近づけるべくお努めになっておられる。これぞ修身、治国、平天下のご躬行なのだ。天皇自らも、皇室が政治を動かしていた時代は極めて短いし、政治から離れた立場、即ち憲法で定める象徴天皇に徹したいと仰せられている。一年後毎の総理の交替は、世界の国々と比し余りに異常である。
さればこそ、わが国の象徴たる天皇こそが「国家の元首」と国民の総意ではっきり憲法に盛り込むべき時がやってきたと言えよう。
長谷川三千子(埼玉大学教授)
平成十一年十一月の十二日、宮城前に集まつたわれわれの上には、あいにくの雨が降りそそいでをりました。折角の紙提燈が、雨ですぐ消えてしまつたり、雨に濡れた提燈の底が抜けてしまつたりして、そこここで悪戦苦闘がくりひろげられてをりました。けれども、それが私たちの意気を沮喪させるどころか、かへつて知らぬ者同士のあひだで和気藹々の雰囲気が生まれ、誰の顔も、元気をみなぎらせてをりました。
折しも、その年の八月、われわれの念願であつた国旗及び国歌法が成立し、うち振る小旗も、なにか二重にめでたく感じられました。昭和天皇の崩御のあとしばらく、心細いやうな、まどふやうな気持ちを抱いた人々も、やうやく十年たつて、平成の御世のめでたさ、ありがたさが腹のそこから感じられるやうになつてきた――誰の顔を見ても、さうした充実感がかがやき出てをりました。
その十年後、われわれは、当時とはがらりとかはつた世の中にをります。これまで、日本の政治の屋体骨を支へてきた自由民主党が、衆議院の選挙で、一気に三分の一ほどの数になつてしまひ、国旗及び国歌法にも半数が反対をしてゐた民主党が過半数をしめる第一党となりました。これから、はたして日本が日本のままでゐることができるのか?――そんな疑問すらうかんでくるやうな新政権が誕生してをります。
しかし、おそらく、このやうな時であればこそ、われわれにとつて皇室のご存在がより一層の重要性を帯びてくるのだと存じます。長い日本の歴史のなかでは、まつたうな人間たちのみが実権を握りつづけてきたわけではありません。ずいぶんどうかと思ふやうな人間たちが、政治、軍事の世界で実力をふるつた時代も、少なくはなかつたのです。けれども、常にさうした力と力の争ひをこえたところに、天皇陛下のご存在といふものがあつた――それが、日本を日本として存続させてきたのです。
この苦難の時期に、いまこそわれわれは、心から力強く、「すめらみこと、いやさか」をとなへたいと存じます。
浜 木綿子(女優)
天皇陛下さま、皇后陛下さま、ご在位二十年おめでとうございます。日本国民の一人といたしまして、心からお祝い申し上げますとともに、この二十年平穏にお過ごし遊ばされましたことを、感謝申し上げます次第でございます。陛下の御代、平成の御代も二十一年。いろいろなことがございました。良いことばかりではなく、災害や不況もございました。しかし、いつの世も陛下がおわしますこと、媒体等で拝させていただきます陛下のご尊顔に、どれほど私たち国民が希望と活力を頂戴いたしましたことでしょうか。
私は、昭和二十八年に宝塚歌劇団に入団以来、女優ひとすじ、ご覧くださいます皆さまの為のみに、生きて参りました。それは陛下の御代二十年もかわらず同様でございましす。さらにこの二十年の間には、一人の息子に子供を、つまり、孫を授かりました。こののちも、私の命は、私の心は、息子へ、そして孫へと続いてまいります。人間の尊い命と心が、未来へ続いて参ります。それはすなわち陛下とともに歩ませて頂きます日々なのでございます。
陛下。どうぞ、私たち、国民のためにも、陛下の御代が、こののちも、穏やかに、幾久しく続きますことを、心から願い上げ、改めてご在位二十年のお祝いを申しあげさせていただきます次第でございます。
浜畑 賢吉(俳優・大阪藝術大学教授)
天皇皇后両陛下の御即位二十年を心からお祝い申し上げます。
両陛下ご成婚の折、中学生だった私はたまたま旧東宮御所前に席を確保してもらい、当時ですら古臭かった蛇腹のカメラで四枚の写真を撮りました。その内の一枚に馬車の中の両殿下がくっきりと映り、それが自慢で友達に配ったのを思い出します。
また、平成二十一年八月には、高知市で小さな催しがございました。「ハチの剥製修復を祝う会」です。戦中の中国戦線で、第八中隊の高知出身の兵士に育てられた豹がおり、中隊に因んでハチと名付けられました。結局最前線では飼うことが出来ず、上野動物園に引き取られたのです。昭和十七年一二月六日に、小学生だった皇太子時代の陛下がハチと対面され、そのことでまたハチは有名になりました。
その事実を拙著に書かせていただきましたが、ハチの幸せは長く続きませんでした。翌年八月、戦中のひとつの悲劇としてハチもまた]R製にされる運命を辿りました。戦後になって、中隊でハチを飼っていた兵士たちによりハチは高知に引き取られました。しかし六十数年の歳月は剥製を風化させ、ボロボロになっていたのです。危うく高知の方々からもその存在すら忘れられるところでした。
それを案じた高知の子供たちが声をあげ、おとなたちを動かしました。みんなで基金を集めて修復が叶い、やっと昔の美しく逞しい豹のハチとなって高知に戻ってきたのです。
陛下が対面されたあの豹のハチは今高知市潮江図書館で、子供たちとの対面を楽しみに静かに佇んでおります。
福田 富昭((財)日本オリンピック委員会副会長)
天皇陛下御即位二十年、誠におめでとうございます。
私は平成十五年十二月二十二日と今年九月二十七日の二度にわたり、天皇皇后両陛下の行幸啓の栄誉を賜り、レスリング競技のご説明役を仰せつかり、私の人生において最大の歓びを賜りました。これ程の幸せ者はいるでしょうか。そして「今後も日本のスポーツ界のために頑張って下さい」という激励のお言葉を頂戴し、感激致しました。
そのお言葉の優しさと重さに感銘を受け、末永く子々孫々に伝えてゆく私の生涯の宝物に致したいと存じます。
天皇皇后両陛下の益々のご壮健を心からお祈りし、いつまでも日本の安定と平和のために、日本国民の象徴として輝かれます事をお祈り申し上げます。
藤島 博文(日本画家)
謹みて御即位二十年、御大婚五十年の月日を御祝い申し上げます。私は日本画を描く者としてまた一国民として、皇室そして両陛下のお姿に心から感謝を申し上げますと共に、天皇家の弥栄を御神仏に祈る者でございます。
貞明皇后
異國(とつくに)のいかなる教え入り来るもとかすはやがて大御國(おおみくに)ぶり
このお歌は大正皇后様がキリスト教徒・内村鑑三の本をお読みになってしたためられたものですが、東洋の果てのその果てにこの列島はあって古来より今日まで世界の文化・文明の終着地であり、また宝処でもあります。
そしてそこには約一万年に渡る古神道・二千年の儒教・千五百年の仏教と伝わり、それら三尊が放つ美意識は、花鳥風月・わびさび等々優雅で繊細、気高く崇高は尊厳の美と技は現代工業発展の礎ともなりました。
そして、またそれらの中央にはいつの日も神社仏閣と何よりも皇室があってのことでありました。その皇室に昭和の初期まで「御物(ぎょぶつ)」の制度があり、私の先師の御作「鳴干九皐(きうこうになく)」がおそらく最後かと思われますが、時を同じくして日本文化・芸術の世界から何か「尊」いものが去って行ったのではないでしょうか。
個における人間中心主義を越えて再びたおやかにとかされた環境芸術とも言える和の文化を、古えにも増して「学びのお歌」のように、異国の人々にお伝えする時かとも存じます。 かつて私は、今上陛下御即位の砌、宮中における「主基(すき)」図屏風制作のお手伝いを師の元に長男とさせていただきましたが、この度は代表委員として、奉祝画を描かせせていただくこととなり大変光栄に存じております。
その図様は「平成鳳凰天来之図」と題し、画面の中央には鳳凰と朱雀が舞い、天上には日輪月輪が輝き、背景には金の二十星霜と銀の五十星霜を描き、その中の一つの星は極座動かずの北極星を配し、以って此度の御盛儀をお祝い申し上げ後の世にお伝え申し上げたく考えました。何より鳳凰は瑞鳥・霊鳥であり、皇室とともに日本列島の家々に舞い来たり福徳の清風が吹き渡りよかれますよう念じつつ筆を進めております。同時にまた今秋の日展出品作として、福寿草の咲く中を仲睦まじく歩む二羽の丹頂の姿にも奉祝の意を込めさせていただきました。
また私のふる里四国の古い家には、昭和十二年に賜った、天皇國璽の証しがあり九十三才まで生きた父はよく教育勅語を暗唱しておりました。代々に渡り皇室を崇拝し、今私がその最前列に生きており、この家風・国風は子々孫々に伝えてゆきたいものでございます。
渡り来る寿風と共に両陛下におかれましてはいよいよ御健康であらせられますよう、そして皇室の御清栄を万代までもと心より念じ上げつつ奉祝のことばとさせていただきます。
閻浮提(えんおだい)日出ずる國の皇室の百億民に幸せぞ送らむ
水谷 研治(俳優・大阪芸術大学舞台芸術学科長)
謹んで天皇陛下の御即位二十年をお祝い申し上げます。
この間、陛下には一貫して国家と国民の将来にわたる幸福をお祈りいただいているとお伺いいたしております。恐れ多く、衷心より御礼を申し上げるしだいであります。
おかげさまで我が国は繁栄を極め、国民は安全で幸せな生活を謳歌しております。
この幸せが長く続きますように願っています。そのためには国民の一人一人が精励刻苦して将来のため国全体のために尽くす必要があります。
我が国は現在、多くの大きな課題を抱えていますが、それを乗り越えるためには国民の大きな犠牲が必要であり、我々にとって相当な苦難が避けられません。いったんは国民一人一人の大きな犠牲と相当な生活水準の落ち込みを覚悟したうえで、果敢に問題に取り組む必要があります。
それには現在の恵まれた平和と豊かさに安住することなく、世界の歴史と情勢を見定め、我が国、我が国民の行くべき道を粛々と進まなければなりません。それは決して平坦な道ではないでしょう。
しかし我々国民が自らの犠牲を厭わず、将来のため国家のために尽くす覚悟さえあれば、どれほど大きな問題であっても、それを克服することができるでありましょう。どのような困難に遭遇しても、それを乗り切り、より輝かしい未来に向かって力強く歩を進めることができると確信しております。
それは将来にわたる国家、国民の安寧と繁栄のためであります。そのための心構えを新たにしたいと考えております。
村田 良平(元外務事務次官)
お元気にて、天皇皇后両陛下が御即位二十年をお迎えになりましたこと、心よりお祝い申し上げます。
外務省に勤務しておりました関係上、既に昭和の御代に皇太子殿下、同妃殿下に御進講を申し上げる機会を何度か持ちましたが、何といっても記憶に残るのは昭和天皇御大葬の儀に際し、外務事務次官として働いた時のことです。当時世界の百六十四ヶ国からの弔問使節が来日致しました。ソ連が十五の国に、ユーゴが六つの国に分裂する前でありましたから、北朝鮮、アンゴラ以外の世界の総ての国が御大葬に参列したと申せましょう。式における今上陛下の堂々たるお振る舞い、宮中で催された各国使節との御会見の模様など今でも脳裏に焼きついております。
さらに私が駐独大使を勤めておりました際に、今上両陛下のドイツへの公式訪問が行われました。大使としてある国に在勤している際、天皇皇后両陛下が在国を御訪問下さることは、まことに幸運なことでございます。
正式のワイツゼッカー大統領主催の晩餐会で両元首がお述べになる御挨拶については、事前の打ち合わせが必要であります。ドイツ大統領府長官は、ドイツの大統領は自らも将校として参戦した方であり、立場上、さきの大戦に全く触れない訳には行かないと申し、協議の上、極く短く何ら問題を起こさない表現にすることとして貰いました。私は、今上陛下は大戦とは何の関わりもお持ちにならないので、御訪問の三年前、東西両ドイツが平和裡に統一を成し遂げたことへの祝意をお述べになることをスピーチの重点とすることが妥当と主張し、そのように決りました。
両陛下は、ドイツ御滞在中私と妻のみを午餐にお招き賜りました。又外務省を退官いたしました際にも、私と妻の二人だけを全く非公式の晩餐へ御招待下さり、私共如きものを御ねぎらい下さる御厚意に深い恐縮と感謝の念を抱いた次第でありました。
平成の御代が今後も平和にて、天皇皇后両陛下が、益々お健やかにお過ごし遊ばされんことをこいねがいます。
渡部 昇一(上智大学名誉教授)
いわゆるグローバル化が進むと共に、地球上の文明圏をいくつかに分類する考え方も一般的になって来ている。その中でも特別と思われるのは日本文明である。朝鮮半島まではいわゆるシナ文明であり、多くの民族、国家、言語が包摂されている。他の文明圏についても同じことが言われよう。しかし日本だけは一国家一文明である。二十世紀のはじめ頃までは欧米人も国家はシナ文明圏の端にある島ぐらいに考えていたようである。
ではなぜ二十世紀が進むにつれて日本は一文明一国家であることが欧米人にも認識されてきたのか。
それは地域研究が進むにつれて、日本はどうしてもシナ文明圏としてくくれないことが明らかになってきたからである。その根本的理由は、神話時代からの万世一系の皇室と神社である。それに日本語や日本仏教を加えてもよいだろう。しかし一系の皇室があったればこその日本語であり。日本仏教である。私もいろいろの国を見てきた。しかし一文明一国家という特別な時空間に生まれ育ったという幸せの気持ちは齢を取るにつれてますます深まってくる。
両陛下は敗戦後の日本という、皇室にとっては極めて困難な時期に育たれた。そして今日、御即位されてからの二十年を振り返ってみると、平和な大国日本の象徴として、つまり現人神として、日本文明の中核を維持されてこられたことが明明(あかあか)と浮き上がってくる。心から御即位二十年を奉祝し、皇室の弥栄をお祈り申し上げます。